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UPDATE|2024/03/16

元恵比寿マスカッツ・篠原冴美「父の突然死、19歳から貧困生活も芸能活動を止めなかった理由」

撮影◎松山勇樹


中学2年生のときに雑誌のモデルオーディションで審査委員最優秀賞を受賞。オーディションを主催する芸能事務所のスクールに特待生で入れた。スクール卒業後は事務所をいくつか転々とした。

「十代の頃は、そのときにやりたいことをやるために、事務所を移籍するというのを繰り返していて。モデルのお仕事をやらせてもらっているうちに、演技のほうがやりたくなって移籍をするみたいな」

仕事はあるものの、軌道に乗らない日々が続いた。映像の仕事にも興味が湧き、母親と共にまた新たな事務所の面接に行ったところ、何かタイトルを獲ったほうが有利になると言われた。

「面接のときに勧められたのが、青年漫画誌のミスコンでした。ファイナルまで残れば肩書きになるからと言われて、受けることにしたんです。ただ当時、私はグラビアに抵抗があったんです。オーディションで水着になったときも恥ずかしくてたまらなかったんですけど、結果はグランプリ。それをきっかけにグラビア系の事務所に移籍するんですが、当時は本当にグラビアが苦手で(笑)」

グランプリの任期は一年。その期間はまっとうしようと、グラビアの仕事を続けた。

「ビキニすら着たことがなかったので、恥ずかしい。毎回スタイリストさんは女性の方だったんですけど、同性にも着替えを見られるのが無理で、『自分で着ます』みたいな。誰とも会話をしないし、すごく態度の悪い子だったと思います。そこまでグラビアに嫌悪感を抱いたのは、恥ずかしいのもあるんですが、芸能コースではない普通の高校に通っていたので、いじめられたんです。

私が飾った表紙がぐちゃぐちゃになって机の中に入れてあったり、他のクラスの人が好奇の目で私を見に来たり。もともと男性が苦手だったんですが、ますます男性不信になりました。

中学時代、落した消しゴムを拾ってくれた男の子の手が触れただけでビンタをしちゃって、学校にお母さんが呼び出されちゃうぐらいヤバくて。とある舞台に出たときも、枕投げのシーンがあったんですが、手が当たる可能性があるので無理ですとNGを出しました。仕事に支障が出るほど男性が苦手だったんです」

気持ちとは反比例してグラビアアイドルとしての需要は高まる一方で、雑誌やイメージDVDの撮影、サバイバル形式のオーディション番組の出演など、仕事は順調に増えていった。

「その事務所に移籍して最初に私についてくれたマネージャーさんは、私が初めて担当するタレントだったんです。だから張り切っていたんでしょうけど、それが空回りして。私を励ますつもりで言っている言葉が高校生の私にはきつくて、どんどん不信感が募っていきました。

ただ、お仕事が忙しかったのは、そのマネージャーさんが陰で出版社やDVDメーカーに営業をしてくれたおかげだったんですよね。それに気づくのはだいぶ後で、当時は現場の度に迷惑をかけてしまうのもしんどくて。約束通りグラビアのお仕事は1年で辞めました」
AUTHOR

猪口 貴裕


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