FOLLOW US

UPDATE|2024/03/16

元恵比寿マスカッツ・篠原冴美「父の突然死、19歳から貧困生活も芸能活動を止めなかった理由」

撮影◎松山勇樹

11歳で芸能活動を始め、モデル、俳優などのキャリアを積み、高校3年生で青年誌のミスコンでグランプリを受賞。恵比寿マスカッツでの活動を経て、現在はタレント業の一方で、プロ雀士としても活躍する篠原冴美。多岐に渡って活動を続ける彼女だが、ここに至るまでは最愛の人の死、貧苦に喘ぐ日々、グラビアや男性に対する不信感など、様々な艱難辛苦があった。20年間に渡る芸能活動を紐解く。(3回連載の1回目)

【写真】プロ雀士としても活躍、篠原冴美の撮り下ろしカット【11点】

小さい頃から引っ込み思案で、クラスでの発表会は大の苦手。どうしたら目立たないで生きられるかを気にするような子どもだった。人前に出る仕事なんて考えたこともなかったが、11歳のときに両親が芸能事務所のオーディションに応募したのをきっかけに、芸能界の道に進むことになる。

「学校の友達が有名人になりたいみたいなことを話していて、それを真似て何気なく両親に言ったところ、真に受けて、私の知らない間にオーディションに応募していたんです。いつの間にかオーディションに合格して、芸能界がどういうところかも知らない状態で、事務所に所属しました。そこまで興味があることではなかったので、自分の意志だけだったら、2、3年で辞めていたと思います」

流されるままに始めた芸能活動だったが、中学1年生のときに直面した父の死によって、気持ちに変化が生じる。

「私の弟が野球をやっていたんですが、お父さんは草野球の監督をやっていて、大抵土日は弟の練習や試合を見に行ってたんです。だからお父さんは、私よりも弟が大切だと思っていて。思春期というのもあって、あまりお父さんとの関係が上手くいってなかったんですよね。

亡くなる前日も、ちょっとしたことで喧嘩をしちゃって、素直じゃなかったので謝れなかったんです。そしたら翌朝、お父さんが髭を剃っている最中に心筋梗塞で倒れて、救急車で運ばれて。私と弟はお母さんに起こされて、病院に行くんですが、直接謝るのが恥ずかしくて、お母さんの携帯を借りて、お父さんのパソコンにごめんなさいのメールを送ったんです。ところが、そのメールが開かれないまま、お父さんは亡くなりました。

告別式のときも、お父さんは私のことを好きじゃなかったんだろうなと思っていたんです。でも、火葬場に行ったときに、お母さんから『お父さんのデスクトップは、ずっと冴美ちゃんだったよ』と聞いて。当時、私はメイク系のモデルをしていたんですが、その写真を壁紙にしていたんです。

しかも、最後にお父さんがお母さんに話していたのが、『冴美には芸能界で頑張って欲しい』という言葉で。それが本当にうれしくて、でも素直に謝ることができなかった後悔もあって。当時は天国にもテレビがあると信じていたので、テレビに出たら、お父さんも喜ぶんじゃないかと思って、本気で芸能のお仕事を頑張ろうと思いました」
AUTHOR

猪口 貴裕


RECOMMENDED おすすめの記事