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UPDATE|2023/04/09

近田春夫が今、グループサウンズを語る理由 憧れ続けた原体験とベストの1曲は?

撮影/大宮高史

1960年代後半に一世を風靡したグループサウンズ(GS)。わずか5年ほどの短いブームだったが、日本のポップス史を語るには欠かせない存在でもある。

【写真】近田春夫の撮り下ろしカット【2点】

1951年生まれのミュージシャンの近田春夫が自身の記憶とともにGSを論じた「グループサウンズ」(文春新書)を2月17日に刊行した。若き日に当時のブームを体感した近田による、経験者ならではのGS論や昭和の音楽文化、そして古稀を過ぎた近田が今GSを語る意味とは。半世紀前を知る業界人からのリアルな証言を聞いた。(前後編の後編)【前編は下の関連記事からご覧ください。

――近田さんはGSブームの1960年代後半は、ちょうど中高時代を過ごしていました。どんな高校生活だったんでしょうか?

僕はまだ子どもだったから、基本はテレビ、ラジオで、ジャズ喫茶もしょっちゅう入り浸りというわけではありません。生演奏は、番組の公開録音などに応募して聞いていた記憶があります。そしてやっぱりザ・アニマルズが好きで、彼らがアメリカのフォークソングの『朝日の当たる家』をカバーした時のキーボードにも興味があったから、子どもの頃はピアノに触れていたけど高校時代にはキーボードも弾くようになっていました。

――キーボードが縁になって、GSのバックで演奏したこともあるそうですね。

僕は1970(昭和45)年に今はない有楽町の日劇で開催していた日劇ロックカーニバルというイベントで、ミュージシャンのカルメン・マキさんと『カルメン・マキ&タイムマシーン』というバンドで演奏したことがあった。その後、ザ・ワイルド・ワンズのマネージャーをしていたナベプロの大里洋吉さんに、キーボードを弾ける奴がほしいと誘われて、ワイルド・ワンズのバックで弾くことになったんです。

1971(昭和46)年の頃だけどもうGS全盛期はとうに過ぎていて、ワイルド・ワンズもGSからジャクソン5のようなコーラスグループへの転換を図っていた時期だった。大里さんは後にアミューズを創業する人ですね。僕の最初期の演奏家としてのキャリアになった。

――近田さんはずっと横浜に住んでいたんですよね。横浜には本牧出身のGSバンド『ザ・ゴールデン・カップス』がありました。

そう。彼らは本牧の『ゴールデン・カップ』というライブハウスを拠点にしていたけど、彼らは皆僕より少し世代が上だし、本牧のあたりにはまだ米軍住宅もあって猥雑な雰囲気があったから、高校生の僕には敷居が高かった。でもそんな彼らもメジャーになったらテレビに出ていたりしたから、横浜のバンドだからといってもローカルであることにこだわったりはしていませんでした。そういうサバサバしているところも横浜の土地柄らしいね。

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