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UPDATE|2022/03/19

渡辺正行が語るコント赤信号ブレイク前夜「 “漫才ブーム” で勝つために、時代の笑いを分析」

渡辺正行

明治大学在学中にラサール石井、小宮孝泰とコントグループ「コント赤信号」を結成したリーダーこと渡辺正行。『ひょうきん族』でビートたけし、明石家さんまらと共演し、『M-1グランプリ』では6回もの審査員を務め、どの時代も第一線で活躍している。一方、1986年からは若手お笑い芸人の育成のための場、「ラ・ママ新人コント大会」を主宰。現在発売中の著書『関東芸人のリーダー お笑いスター131人を見てきた男』(双葉社)では、バナナマンやオードリーなど数々のお笑いスターたちの若き日々を綴っている。今回、改めてその濃厚すぎる、リーダーのお笑い人生について話を聞いた。(前中後編の中編)

【前編はこちら】渡辺正行が振り返る芸人への道「きっかけは落研、先輩・立川志の輔さんの落語を見て衝撃を受けた」

【写真】どの時代も第一線で活躍する、リーダーこと渡辺正行

──若手の頃ストリップ劇場である、「道頓堀劇場」にも出演していたそうですが、どういう経緯で出ることになったんですか?

渡辺 道頓堀劇場ではストリップの幕間に15分ぐらいコントをやる枠があったんですけど、専属の若手芸人が辞めて枠が空くことになって、「お笑いを本気でやる気があるんだったらやってみないか」とコント太平洋の市川太平さんに誘われたんです。1日4回ステージがあって、コントをやる他に事務所の電話番や劇場内の掃除、そこに専属でいた杉兵助先生の周りの世話などをして2500円くれたんです。ただし1年間、365日休みがなかったんです。

──ストリップ劇場に出ることに抵抗はなかったんですか?

渡辺 めっちゃ嫌でしたよ(笑)。前任者がどんなコントをやるのか下見に行ったら、黒い下着を着てSMをするみたいな酷いコントをやっていたんですよ。「こんな世界なんだ……」って引きましたね。でも当時劇団(「劇団テアトル・エコー」)にいても全然仕事はこなかったですし、とっかかりもなくて人前に立つことすらなかったんです。たとえストリップ劇場とはいえ、板の上でメシを食っている人になれるならやってみるかと。

──(コント赤信号の)小宮(孝泰)さんとラサール石井さんも賛成だったんですか?

渡辺 その頃はまだ3人でグループを組んでいるという感覚はなかったですから、こういう話があって、人生を左右することなので、自由意思で決めようと。僕と石井君はやりたいということで劇団を退団すると。ただ小宮は劇団から声優の仕事をちょこちょこもらっていたので休団にしてほしいと(笑)。そういうところが、あいつは煮え切らないんですよね。それで3人で劇団に言いに行ったら、「うちには休団というシステムはない」と言われて、小宮も仕方なく退団することになったんです。それが22歳のときですね。

AUTHOR

猪口 貴裕


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