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UPDATE|2021/02/05

日本で最も恐れられる雑誌『週刊文春』はいかにして週刊誌のトップランナーになったのか

スクープの裏側を追ったノンフィクション『2016年の週刊文春』(光文社)


──若手時代の柳澤さんにとって、花田編集長はどんな存在だったんですか?

柳澤 当時の僕は特集班ではなくグラビア班。ハードな事件を追いかけていたわけではなく、もっぱら柔らかい記事を担当していました。あるとき、グラビア班のデスクに「サッカーのイタリアワールドカップがあるから3週間イタリアに行かせてくれ」って直談判したんです。単純に見たかったので。僕は一応グラビア班のエースだったので、デスクからは「ふざけるな」って一蹴されましたけど、なんと花田さんが「まあ、いいじゃないか」と言ってくれたんです。デスクは苦々しい顔で「しょうがねえな、じゃあグラビアでイタリアワールドカップ特集をやるぞ、お前が1人で全部作れ」って(笑)。フィレンツェの塩野七生さんに「私の大好物」を聞いたり、ミラノでは『ヴォーグイタリア』の編集部を訪問したり。その合間に試合もしっかり見たんです。生でマラドーナを見られたのはよかったですね。

──イタリアW杯は1990年。当時はまだJリーグが始まる前で、日本ではサッカーは今のようなメジャースポーツではありませんでした。

柳澤 有名なドーハの悲劇が4年後の1994アメリカ大会の最終予選。イタリアワールドカップは日本代表が最初にワールドカップに行く8年前です。1990年に僕がイタリアへ行ったことは、じつは文藝春秋にとっても有益だったんです。というのも、その後、僕は『Number』に異動になって、初めてのサッカー日本代表特集を作ったし、ドーハで負けた時の号も担当して、1週間で実売98%まで行きました。初めてのヨーロッパサッカー特集を作ったのも、文春初のサッカー本(後藤健生『サッカーの世紀』)を作ったのも僕です。こうして、あとになって、僕のイタリアでの経験が生きた。花田さんには、ある程度見えていたんでしょうね。こいつは遊ばせておけば、勝手に何かを拾ってくるって。
AUTHOR

小野田 衛


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