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UPDATE|2020/07/24

俳優・宝田明さんが語る満州引き揚げと沖縄戦「戦争がいかに悲惨で不毛かを伝えたい」

撮影/松山勇樹

7月25日(土)に『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』(太田隆文監督)が封切られる。太平洋戦争時、日本で唯一の地上戦が行われた沖縄。戦後75年が経ち、その凄惨な戦闘の記憶が風化しようとしている今、沖縄戦の体験者12人、専門家8人に話を聞き、当時の映像とともに“知られざる悲しみの記憶”を丹念に描いたドキュメンタリーだ。

この映画で女優の斉藤とも子さんとともにナレーションを務めているのが俳優の宝田明さんだ。現在、86歳の宝田さんは少年時代を満州で過ごし、ソ連軍の満州侵攻による混乱の際には、ソ連兵に右腹を撃たれたという経験を持つ。「満洲は日本本土を守る北の防波堤で、沖縄は南の防波堤だった」そう語る宝田さんに『ドキュメンタリー沖縄戦』の話を、ご自身の満州での経験と合わせて伺った。

【関連写真】戦死者(沖縄出身)12万2228人、壮絶な当時の沖縄を伝える貴重な写真

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 僕は2歳のときに満洲に渡り、ハルビンで子供時代を過ごしたんです。終戦後、日本に引き揚げてきたのが小6のとき。だから正直に言うと、沖縄に関してはそこまで深く理解していたわけではないんです。というのも、満洲にいると日本国内の戦況すらよくわからないんですから。ましてや沖縄でどんな悲惨なことが起こっているかなんて、情報がまったく入ってこなかった。なにせ軍が情報をシャットアウトしていましたので。そういうこともあって、僕が沖縄のことに関心を持つようになったのは映画俳優になってからなんです。

 満洲時代の僕は典型的な軍国少年。当然、将来は関東軍に入るつもりでした。ところが終戦後、状況は一変するわけです。ソ連軍がハルビンに入城してくると暴虐の限りを尽くし、数万人の関東軍がシベリアに抑留されていった。北の方角に連れていかれる兵隊さんは列車の窓から日の丸を振っていて、その様子を見に僕も駆け寄った。なぜかと言うと、兵隊に行った僕の兄はすでに行方がわからなくなっていたから。ひょっとしたら、その列車にいるんじゃないかと考えたからです。

「帰れ! 帰れ!」

 列車にいる兵隊さんたちからは、たしかにそう言われました。その直後にダダダッと足音がすると、ソ連兵は72発入った自動小銃(僕たちはその銃をマンドリンと言っていました)を一気に撃ちまくってきた。僕も転げるように逃げ回ったけど、家に帰って見てみると血まみれ。ひたすら身体が熱かったです。そして3日目には化膿してきて、人が近くを通るだけでも痛みで全身が引き裂かれるような状態。そこで昔は軍医だったという人に頼んで弾頭を取ってもらったんですけど……これが、またとてつもない痛み。裁ちバサミで腹をまさぐって、鉛の銃弾を取ったんです。

 もちろん当時の満洲と沖縄では事情が違います。だから僕の経験と沖縄の悲劇を一緒に語るのは違うという意見もあるかもしれない。ただ、根底としてあるのは戦争がいかに悲惨で不毛かということ。そこは声を大にして主張したいんです。満洲は北の防波堤として考えられていたし、僕らもそのつもりでいた。一方、沖縄は南の防波堤。両方とも日本本土を守るものと捉えられていたんです。そしてその結果、どうなったか? 国からは薄情に見捨てられた。これが現実ですよ。
AUTHOR

小野田 衛


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