──他に印象に残っているモーヲタはいますか?劔 当時、僕も普通に『BUBKA』は読んでいたし、雑誌の中に出てくるごっしーさんとか好きでした。
吉田 ごっしーは今、ボクがやっている連載でカメラマンを担当してくれていますよ(笑)。もともとボクがライターとして世に出たきっかけは『マンガ地獄変』(水声社)と『悶絶!プロレス秘宝館』(シンコー・ミュージック)の2冊なんですけど、『マンガ地獄変』の編集をしたのがビバ彦さん。そして『悶プロ』編集がごっしーだったんですよね。そして結局、この2冊は両方ともスタッフがモーニング娘。に狂ったことで打ち止めになってしまった。『マンガ地獄変』に至ってはVol3まで順調に刊行されていて、ボクも含めライター陣はVol4の原稿も書かされたんです。それなのにビバ彦さんがモーニング娘。にハマって仕事をしなくなったせいで、お蔵入りしちゃったという……。
劔 ひどいなぁ(笑)。
吉田 本当にひどい話ですよ! ただ当時の編集者やライターは、モーニング娘。のせいで仕事を失うということがザラにあったんです。最近、杉作さんがしみじみ言っていましたよ。「当時は自分の結婚式があったとしても、モーニング娘。現場と重なっていたら娘。を取っていた」って。娘。がすべてに対して優先していた。あのときは、みんな完全に頭がおかしかったです(笑)。
──自分の周りの仕事仲間がモーニング娘。の魔力でダメになっていく様子を、当時の吉田さんはどうご覧になっていたんですか?吉田 単純に面白かったですけどね。でも、ボクが口を酸っぱくして言っていたのは「モーニング娘。だけがアイドルではない」ということ。だからDJイベントでもハロプロをほとんどかけずにチェキッ娘(※8)とかを流していました。アイドルが好きと言っておきながらチェキッ娘すら聴かないなんておかしいですよ! って宇多丸さんにチェキッ娘のベスト盤を渡したりして。
──でも、当時のアイドルはハロプロの寡占状態でしたよね。Bon-Bon Blanco(※9)とかはありましたけど。吉田 あぁ、ボンブラは爆音娘。界隈はみんなハマっていましたね。
劔 それで言うと、誰かが爆音娘。でPerfumeの『スウィートドーナッツ』(※10)をかけていたことを強烈に覚えているんですよ。
吉田 『スウィートドーナッツ』はボクもDJでかけたなあ。
>>後編に続く
(取材・文/小野田衛)
▽劔樹人(つるぎ・みきと)1979年5月7日生まれ、新潟県出身。ベーシストであり漫画家。妻はエッセイストの犬山紙子。ハロヲタ夫妻として、ファンからも親しまれている。
Twitter:
@tsurugimikito▽吉田豪(よしだ・ごう)1970年9月3日生まれ、東京都出身。プロ書評家、プロインタビュアー。タレント本やグッズの収集家としての一面もあり、「サブカル界のスーパースター」の異名もとる。
Twitter:
@WORLDJAPAN
※1:大阪時代、劔が仲間内のモーヲタを集めて結成したバンド。※2:『浅草橋ヤング洋品店』(テレビ東京系)からリニューアルしたバラエティ番組。モーニング娘。は同番組内の「シャ乱Q女性ロックヴォーカリストオーディション」の落選組で結成。※3:味園クイズ研究会の会長で、関西のクイズ王として知られる西野ヒロシ氏のこと。大阪で開催される吉田のイベントでは、PAを務めることが多かった。※4:漫画家、ライター、タレント、映画監督、ラジオDJなどマルチに活躍するサブカル界の重鎮。男の墓場プロダクション代表。※5:作家、エッセイスト。編集者として活躍したが、『私、プロレスの味方です』(新風舎)で鮮烈デビュー。閉鎖的なプロレス村に新たな価値観を提示し、時代の寵児となる。1982年に『時代屋の女房』で直木賞を受賞。※6:アイドルプロデューサー、実業家。でんぱ組.incのプロデューサーで、ライブ&バー「秋葉原ディアステージ」やアニソンDJバー「秋葉原MORGA」を運営していた。※7:杉作J太郎が立ち上げた映画プロダクション。『任侠秘録 人間狩り』など挑戦作4本をこれまで世に送り出している。※8:フジテレビが「平成のおニャン子クラブ」を目論んで1998年にプロジェクトを発足。結果的には短命に終わったが、楽曲のクオリティは当初から定評があった。※9:ガールズラテンバンドとして2002年に結成。ファンキーでオリジナリティあふれる世界観でハロプロ寡占状態にあった女性アイドルシーンに風穴を開けた。※10:2003年リリース。この作品を機に中田ヤスタカが楽曲プロデュースを務めることになる。作詞は木の子。