FOLLOW US

UPDATE|2019/06/30

諦めなかった者だけが次の時代を作る…亀井絵里が見たモーニング娘。プラチナ期

モーニング娘。年代記 第12回


2008年のモーニング娘。にとって、今考えるとコンサートというのは、まさに「すべて」を占める存在だったのではないかと思う。それはメディア露出の激減がありながら2008年のコンサートツアーは春が12都市35公演、秋が14都市35公演と、『LOVEマシーン』リリース直後の2000年春ツアーとほぼ同じ公演数を保っていたからである。

これらのコンサートを支えていたのは時代の潮流が変わってもなお残っていた、一定数のファンだった。そしてこのファンの存在こそが、興行としてのコンサートツアーと、それに付随する新曲リリースという形で、メディア露出が減ったモーニング娘。を引き続き芸能界に引き留める大きな役目を果たし続けてくれていたのだ。

また先の亀井の言葉にやはりどこかリンクするように、当時リーダーだった高橋愛もこの2008年の印象的な思い出を、コンサートという単語に絡めて振り返っていたことがある。それはこの年の5~6月に初めて実現した、グループ初となるアジア3カ国ツアーでの記憶だ。

「もう反応がすごかったんです。(中略)『キャー!!』って叫んで泣いているんですよ。それは韓国でも上海でも台湾でも同じだった」(※3)

やはり当時サブリーダーとして活動していた新垣里沙によれば、看板の高い知名度と置かれた現状が遠くかけ離れていったこの時期、メンバーはマネージャーにさえ「昔はすごかった」という理不尽な理由で、叱責をうけることが少なからずあったという。(※4)

しかし全盛期からのファンが根気強く残ってくれていた日本はもちろん、海外においてもこの2008年、先輩たちの記憶ではなく今のモーニング娘。に向けられた声援が、コンサート空間では確かに届けられていたのである。

この一連の流れの先にあったものを、後に新垣が表現した言葉でそのまま説明すると「私たちの主戦場がライブのステージに変わったんです」(※5)という一文になるのだが、あえてもう少し掘り下げたいのは、後年に付け足された評価ではなく、いざ「当時の彼女たち」には一体どんな手応えが残されていたのだろうか、ということだ。

ここでもう一度、亀井絵里の言葉を引用したい。それは後に芸能界引退の道を選ぶため、芸能人としてはついにプラチナ期への称賛を聞くことがなかった、一人のモーニング娘。の素直な記憶の言葉である。

「テレビでシングル曲を歌わせてもらうときは、たいがい1ハーフか1コーラスなので、(中略)どんなにダンスで頑張っても映らなかったりすることもあるじゃないですか。でも、コンサートは平等で、ステージ上で目立ったメンバーや、ファンの人たちが追いたいメンバーをちゃんと見てくれる。それが向上心につながったんです」(※2)

スキルが上がった、路線が変わった。この1年の歩みをそんな便利な表現に押し込め、語ってしまうのはきっと簡単だ。しかし実際にはモーニング娘。の2008年は努力がすぐに結果へと結びついたわけではなかった。


※3「Top Yell+ ハロプロ総集編 Hello!Project 2012」(竹書房)
※4「新垣里沙(後編) 黄金期と比較された苦しい時期に生まれた決意」(朝日新聞デジタル)
※5「新垣里沙(前編) 黄金期と比較された苦しい時期に生まれた決意」(朝日新聞デジタル)
AUTHOR

乗田 綾子


RECOMMENDED おすすめの記事