「これが今回頑張った結果です」
この中澤裕子の一言にすべてが詰まっていた。そもそも前年からの知名度上昇で、モーニング娘。の活動はすでに多忙を極めている。目まぐるしい日々の中で、まだ若い彼女たちは体調を崩したりホームシックになったりしながらも、現場では求められたものに応えようといつも必死に仕事へ取り組んでいた。
安倍なつみがフィーチャーされた『ふるさと』にしても、あからさまに偏った歌割は当初メンバー間の軋轢も生んだが、それでもリリースの頃には「これが売れなかったらヤバい」とグループは一丸となってこの曲の披露に取り組むようになっていたのだ。
しかし歯車は、かみ合わない。
『ふるさと』のオリコン初登場5位という数字はただ単にライバルに負けたという以上に、若い彼女たちにとって、どんなに努力をしても光は見えないのだという、不条理で冷酷な現実の証であった。そして同じ時期、メンバーはマネージャーからついにこんな言葉も告げられる。
「次売れなかったら解散だから」
ただ、1つだけここで救いがあったのは、1999年7月のモーニング娘。にはまだ、次という概念が残されていたことだ。その耐え難い苦悩の先には破滅ではなく、「続く明日」の希望が、若い彼女たちをほんの少しだけ待ってくれていた。
1999年8月。結局滅亡しなかった世界の中で、プロデューサーのつんく♂はあるデモテープをミュージシャン・ダンス☆マンの元に持ち込んでいた。
「世の中暗かったし、僕自身もプライベートがいい感じじゃなかった。でも、こっちの気持ちもお構いなしで楽しそうにくっちゃべってるモーニング娘。の雰囲気をお茶の間に届けられる曲を出したいと思いました」(つんく♂)
原案はまだ売れていなかった頃のシャ乱Qのボツ曲。そのときにつんく♂が鼻歌で録音していたデモテープから制作されたのがモーニング娘。の〝次の曲〟、7枚目シングルとして発表される『LOVEマシーン』である。
この曲はどん底にあったアイドル7人の人生と、そしてある中学生の人生も変えた。モーニング娘。3期メンバー・後藤真希。当時13歳だった彼女はたまたま学校で話題になっていた『ASAYAN』を観たところ、モーニング娘。の新メンバー募集告知を目にし、ふと姉に「履歴書を書きたい」と声をかけていた。
書類が投函されたのは彼女の自著によれば「中学2年生の7月」。
そう、それはまさに、あのノストラダムスが「空から恐怖の大王が降ってくる」と予言した、〝1999年7の月〟の出来事であった。
そしてこの一枚の履歴書が不況に生まれたアイドルグループの運命を、そして日本のアイドルシーンの運命を、一気に変えてしまうことになる。