1992年のデビュー以来、グラビアでも活躍してきたタレントの矢部美穂。そんな彼女が今年5月8日に開催されたDVD『お久しぶりです 矢部美穂です』の発売記念イベントで、グラビアからの卒業を発表、さらに同月29日には川崎競馬所属の山林堂信彦騎手との結婚を発表し世間を驚かせた。改めてこれまでのグラビア活動から、ヘアヌードを出さなかった理由、さらにグラビア卒業への思いを聞いた。(前後編の前編)
【写真】結婚発表で話題、矢部美穂の撮りおろしカット【10点】──矢部さんは1992年、15歳のときに「New MOMOCO CLUB」グランプリでデビュー、その後グラビアを中心に活躍されますが、初期はグラビアに抵抗感があったそうですね。矢部 だって田舎の女の子だったんですもん(笑)。最初は右も左も分からないし、怖いですよ。そもそも芸能界デビューして何をやるかということも当時は分かっていなかったんです。北海道の中学校でひどいいじめに遭って、ただそこから逃げたいという思いで芸能界を選んだので、仕事の内容までは考えが回らなかった。気が付いたらグラビアの仕事をいっぱいやっていました(笑)。
──そんな中でも、グラビアのお仕事で楽しかったことはありますか?矢部 まず名前で呼んでもらえること! それまでいじめられてきて、名前で呼ばれたのが初めてだったから嬉しかったんですよね。「矢部菌」とかでなく、「美穂ちゃん」とか「やべっち」とか。人として扱ってもらえる、人として認められていることが大きかったです。
──改めてすごい学生時代ですね……。そしてグラビアで人気となる中、徐々にテレビの出演も増えていきました。矢部 今田耕司さん、東野幸治さんが司会の番組『天使のU・B・U・G』で矢部美穂という存在が認められて、そこからバラエティやドラマの出演が増えてきました。番組でウケたのをきっかけに、バカっぽいキャラクターにしているとみんなが笑ってくれると思って、わざとぬいぐるみをぶら下げたりとか、自分で「おバカキャラ」を演出していました。
──自身で“矢部美穂”というキャラを作っていった、と。矢部 そうですね。マネージャーに言われたとかじゃなく、自分で今まで全部考えてやってきました。仕事が減ったときも、自分でどう売っていこうかと考えていたくらいですから。
──『天使のU・B・U・G』がきっかけで給料がもらえるようになった、というエピソードもなかなかインパクトがあります。詳しく教えてもらえますか?矢部 当時所属していた事務所から給料をもらえていなくて、生活費として月4万円をもらうだけだったんですよ。でも一番売れているときだったので、CMもいっぱいやっていたし、めっちゃ事務所は儲かっていたと思います(笑)。だからあるとき、番組で「何で他の子は給料をもらっているのに私だけもらっていないんだ」って暴露したら、次の日から給料もらえるようになりました(笑)。
──当時とはいえ、東京で月4万円じゃやっていけないですよね。矢部 そう。だから上京してすぐに彼氏を作って、食べさせてもらっていました。生きていく術を自分で見出していかないと無理だったんですよ。だって事務所はお給料くれないんですもん(笑)。
──さらにはその事務所の社長が金銭問題で失踪する……まさに波瀾万丈です。矢部 社長が飛んでからは、専務が私を連れて新しい事務所を作ってくれて。反省を活かしてそこからは給料は歩合制にしてもらいました。でも当時は全部、ギャンブルに使っていたから貯金なんかなくて……。
──えっ、ギャンブルに全部使っていたんですか!?矢部 競馬、パチンコ……いろいろですね(笑)。家族全員ギャンブル好きだったので、朝からみんなでパチンコに並んで新台をとったり、バカなことばっかりやっていました。そもそも親が貯金をしていないので、それでも生きていける、それでいいやと思っちゃっていたんですよ。でもギャンブルがあったからこそ、騎手である今の旦那さんにたどり着いているから、結果的に私は全部プラスに行っているんです(笑)。逆にギャンブルがなかったら、仕事を失っていた時期もありましたよ。